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哲学と知の変革

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知の変革 

○知と信仰の融合 〜真理無き相対主義の時代を超えて〜

「知の土台に信仰心がある」

これは本当に、本当に重要なポイントであると私は思います。この一点が人々の間で本当の意味で認識されたとき、知はコペルニクス的転換をもって変革される、それだけのインパクトがあることと思います。

1. 知の土台に信仰心がある

実証主義者は知によって全て解決可能であり証明可能であると思うのでしょうが、実際には、証明可能なものなど何一つありません。科学的でないもの、証明できないものは信じないというのですが、実際にはこの世に証明可能なものは何一つありません。

唯一、数学だけは、数学という体系の内部においては非常に信頼性があります。しかし、その数学という体系自体正しいかどうかを証明できません(ゲーテルの不完全性第二定理)。また、科学もそうです。科学は帰納法をベースに法則が確定されますが、自然界に帰納法が成り立っているかは証明ができません(自然科学の斉一性原理)。

哲学においてはカントの『純粋理性批判』が哲学史上の最高峰と言われることがあり、私も確かにそう思いますが、しかし、この『純粋理性批判』で書かれている内容も証明はできないものです。

カントは神や霊魂と言った物自体はアンチノミー(二律背反)に陥り、証明不可能と言っていますが、そもそもカントの『純粋理性批判』自体がアンチノミーの対象であるといえるでしょう。つまり、カントは人間の認識は、「時間と空間という感性の形式で事象を受け取り、悟性の形式の12のカテゴリで分析把握がなされる」と主張するのですが、これが正しいかどうかは証明ができません。

800ページ以上もの大作ですが、結局何も証明できていないのです。カントはデビットヒュームの議論(因果関係は人間の想像上の産物に過ぎない)を何も解決できていないわけです。

結局のところ、なぜ実念論(実質は存在する)と唯名論(実質は存在しない)の決着がつかないかと言うと、証明ができないのです。知の積み上げには限界があり、知だけで決着をつけることができないのです。

哲学者は、特に経験論哲学者は、なんとか知のみで決着をつけようと頑張っていたわけですが、無理なのです。だから、何千年も同じことをやっているわけです。ギリシャ時代で相対主義に傾いたかと思ったら、この21世紀という現代にまた相対主義に傾いている。結局、知のみでは限界があり、それを超えた領域に関しては、トーマスアクィナスが言ったように、信仰心が支配しているのです。そこに到達しないと、決着をつけることができないのです。

つまり、知だけではなく、全て何かしら信じる気持ちがあることによって、確固たる形に固定されるわけです。あらゆる認識は、「事実認識+信仰心=100% 信仰心>0」の数式によって、与えられます。科学的なものは事実認識の比率が高く、宗教的なものは信仰心の比率が高い。通常は、事実であれば信頼しやすいため科学的なもの実証主義的なものに人々は惹かれるのかもしれませんが、結局認識の構成要素は同じなのです。その比率の違いだけで、両者上記公式に収斂されます。

知の土台に信仰心がある。

知は信仰心に包含され、信仰心の元、知を行使することが大切であると思います。知によって全て証明できるとお釈迦様の掌の上の孫悟空のように傲慢になるのでなく、謙虚に信仰心を持って知を行使することが大切でしょう。

2. 認識力

さて、知の土台に信仰心があるという話をしましたが、もうひとつ非常に重要なポイントがあります。それは、認識力です。

知の土台に信仰心があると言って、何も、実証主義者が信仰心を持っていないわけではありません。実証主義者も信仰心を持っているのです。それは「目に見えるもの、証明できるものは信じられる」という信仰心、信念です。

しかし、イエスキリストも、「目に見えるものを信じるのはたやすい、目に見えないものを信じるのは勇気がいる」と言っているように、目に見えるものだけを信じる態度というのは、私は認識が高いとは思いません。

ですから、信じるということに関しても、認識のレベルというものがあるのです。私はその最高の認識がプラトンのイデアをつかむ認識であり、ヘーゲルの言う絶対知と呼ばれるものであると思います。

さて、認識力について詳細に記載していきたいと思いますが、紙面の都合も含め、この認識に関しての詳細は、認識を上げる方法も含め、私の論文『理念の哲学』に譲ることにしたいと思います。

3. 知と愛の融合

さて、次に、信仰心とは信じることであるとともに、同時に、神に対する信仰、愛を持って生きることを含みます。ですから、知の土台に信仰心がある、とは、愛を元にして知を行使しなさい、つまり、知と愛を融合しなさい、ということと同値です。

私の中では、信仰と愛が結びついているのですが、もし、「知の土台に信仰心がある」、と言われ、イメージがつきにくいようでしたら、そのように考えてみてください。すると、すーっと頭に入ってくるかもしれませんね。

愛を元にした知の行使、これが新しい時代の知の在り方であると私は思います。

愛を元にして知を行使することによって、社会の様々な問題というのが解決されていくことでしょう。
社会構造が変革され、新時代が到来することでしょう。


このホームページのビジネス経済の内容も、まさに愛と知の融合による問題解決になります。この愛と知の融合こそが、最も、最も大切なことであり、知の基礎となりうるために、この哲学および宗教の部分で、最初に基礎づけを行っているということです。

愛とは何か?愛とは、相手に対する優しさであり、利他の心であり、奉仕の心であり、無条件の信頼であり、その全てです。そして、愛と神に対する信仰の元においては、相対主義ではなく絶対主義、個性の創造ということが真実であると思います。

現代の哲学は、真理無き相対主義に流れていますが、私はそれが間違っていると主張したいと思います。真理は存在し、本来世界は絶対主義である、そう私は認識します。それを解決するカギとなるのが、これが信仰心です。

以下ポイントを記載しましょう。合わせて、私の論文『理念の哲学』も参照されるとより理解が届くと思います。


○知の方法 〜相対主義から絶対主義へ〜真理の証明〜

知と信仰心を題材に哲学的な内容を考えてみたいと思います。詳細は私の論文『理念の哲学』にて。

1.真理の存在と統合へ向けて

今現在は、ポストトルゥースと言われるように、真理なき時代とも言われます。価値観は人それぞれと言われ、絶対唯一のものは無いといわれています。唯一の価値観に押し込むことで不寛容さが生まれるとも言われていると思います。善や正義といった概念も絶対的な価値では無いと言われることもあります。そのような中で世界は分断に向かい、また社会も分断に向かっていると思います。

しかし、真実のものがなければ、人々の行動の拠りどころは一体どこに求めればよいのでしょうか?

私は断言しますが、真理は絶対的に存在し、善や正義と言った最高理念(イデア)は存在します(※詳細は『理念の哲学』にて)。最高理念は存在し、今後人類は、分断の壁をつきぬけ、統合の方向に向かっていくと思います。

ニーチェは価値観は人それぞれ(遠近法主義)と言い、それ以降解釈学が発達し、それが現代の相対主義の淵源であると思いますが、私は真理は必ず存在する、そう断言しましょう。その鍵を握るのが信仰心なのです。その真理の元、高い次元の理念を把握し、その統合理念に基づいて社会を再構築していくことが必要であると思います。それが次世代の社会の姿であると思います。

真理とは、調和性と発展性のバランスの中にあり、簡単な言葉で言うと愛ということになろうと思います。愛の元に社会は統合され、神の元再構築されると思います。


2.絶対主義のもと統合と個性は両立 〜絶対矛盾的自己同一〜

そのように言うと、必ず、人々には個性があり、それを統一することは間違っている、唯一の価値観に押し込もうとする、それが西洋哲学の大きな誤りである、という人が現れます。

東西冷戦の時代は東側(社会主義)と西側(資本主義)がお互いが自分が真実であると譲らず多くの犠牲者が出たため、真実など存在しないとジャックデリダは脱構築を行いました。

しかし、そのような考えは私は間違いであると思います。愛の元における統合と個別の個性は一見すると互いに矛盾するように思えますが、しかし、両者は両立しうるのです。それが京都学派、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一です。お互い矛盾しながら自己同一を果たしていく、それによって大いなる大調和が生まれる、それが真実の姿である、私はそう思います。それを西田幾多郎は絶対矛盾的自己同一という言葉で表現したと思います。

本当の姿とは、愛の名のもとにお互いの個性が燦然と輝きより素晴らしい世界を形作る、そのような姿です。愛によって統合されるとき、それぞれの個性が燦然と輝きを増すのです。個性は唯一であり、これは、相対主義ではなく絶対主義なのです。


3.理念の哲学 〜現実の問題を理念に基づいて解決する方法〜

従い、今後、ポストトルゥースを乗り越えて、真実の価値観を導出し、その価値観の元、社会の再構築が必要となることでしょう。では、どうやって再構築するのか?その方法がないと難しいでしょう。

そこで、私自身は、真理を導出すると同時に、その真理に基づいて、問題解決する方法を構築しました。それを私自身は理念哲学と表現しています。そして、このホームページの内容は全て、この理念の哲学の方法で持って、記載しています。

私は理念哲学と表現しているわけですが、別に方法論はなんでもいいのです。名前も何でもいいのです。「真理をこの三次元世界に映し出す方法」それであれば、方法論はどうあってもいいのです。

しかし、いずれにせよ、真理に沿って神の世界をこの三次元世界に映し出す、それは大変重要なことであると思うのです。神の世界を地上に表現する、それをこのホームページでは様々な観点から記載しているわけです。


4.人間はどのように生きればよいか?

さて、我々個人個人の大きな問題は人間はどのように生きればよいのか。その課題でしょう。

私はそれはギリシャ哲学に求めることができると思います。20世紀初頭の実存主義に求めずとも、ギリシャ哲学のソクラテス、そしてアリストテレスの2巨頭の言葉に学ぶことが可能であると思います。また、ヘーゲルも重要ですね。詳細は私の論文の中に記載しましょう。

また、働き方については、ビジネスと経済の頁を参照くださればと思います。


○主観と客観の一致について

上記、哲学における重要な論点である真理は存在するか?ということにこたえる内容でもあるのですが、哲学にはもう一つ非常に重要な議論があります。それは、主観と客観の一致の問題です。

哲学をあまりよく知らない方はなんのことやら?という感じでしょうが、主観と客観の一致は、大変重要な問題です。要は、「人間は正しい認識が可能なのか?」ということです。

私たちが見ているこの風景は本当に現実のものなのか?私たちが認識しているニーチェの解釈は本当にニーチェが意図しているものであるのか?要は、私たちが考える解釈と実際の客体の姿は一致しているのか?という問題ですね。

これは、デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサールと至る哲学史の過程において、現在のところ、「原理的に不可能である」というのが、一般的な解釈ではないでしょうか?

しかし、主観と客観の一致が原理的に不可能であれば、我々の正しい認識は不可能で、全て相対的になり、人それぞれということになってしまいます。その極端な姿が、正義や善ですらも相対化する動きですが、我々の世界はそんなに不安定なものなのでしょうか?

いいえ、私は違うと思います。

私は、主観と客観の一致は可能であると断言しましょう。それは、フッサールの言うように第三者の視点でチェックするなどというような弱いやり方ではなく、これは、哲学の範囲を超えるのです。宗教的な領域に入っていくことで主観と客観の一致は可能になるのです。この辺のことは、詳細は『理念の哲学』で詳しく記載することにしましょう。内容的には、西田幾多郎の純粋経験に近い形であると思います。


○コンサルティングの問題解決手法の変革 〜現実社会への応用〜

知と信仰が融合するという話をしたわけですが、それによって、私の本職であるコンサルティングの問題解決手法、これも、変革していくと思います。

現在のコンサルティング手法は、実証主義をベースにしたファクトベーストコンサルティングが主流です。事実を元にして分析、リサーチを行い、問題解決を行う手法ですが、しかし、多くの場合は、「より売上拡大を図るため」、「市場シェア拡大を図るため」といったあらかじめ目的が設定されており、その目的に沿って問題解決を行っていきます。

しかし、昨今、日本では神戸製鋼や日産、日立製作所など様々な品質上の不正が浮き彫りになっており、売上拡大や収益拡大を図った結果、社会に対してネガティブインパクトを及ぼしている例も数多くあり、四半期決算などの短期的な業績評価基準、行き過ぎた競争主義的な資本主義に対する疑問というものは世界中至る所で起こっていると思います。

この場合、私は、やはり更に根本に立ち返り、売上拡大ということが本当に良い価値観なのか、本当に人々を幸せにする経営の在り方はどういうものなのか?そういったことを考える必要があると思います。

つまり、社会に提供する価値、経営の理念、経済の理念というものを根本から立ち返り、そして、その理念に沿って、問題解決を行っていくことが大切であると思います。昨今、近江商人の三方良し、などの日本の古来の経営の理念が見直されていますが、まさしくそういうことであると思います。ESGやSDGsもその大きな流れですね。

ですから、今まで実施してきたファクトベーストコンサルティングや本質的問題解決手法は、それはそれでよいのですが、それだけでは不完全であるということです。この本質的問題解決手法に対して、理念を加えていく必要があるということです。そして、理念とは、これすなわち、愛であり上記、信仰心に通じるものです。ですから、コンサルティングの問題解決手法も、今後、ファクトベーストコンサルティングでは、たちいかなくなり、知と愛の融合による問題解決が行われていくであろうと思います。

ファクトベーストコンサルティングが実証主義的な帰納法によるものであるとすれば、理念は演繹的であり、帰納法と演繹法の融合により統一止揚された問題解決手法が今後望まれるということです。それが「悟性」ですね。


○正しさの判断について 〜現代哲学と私の哲学の差異を題材に〜

このコラムは私自身、現代哲学や古代からの哲学思想を知ったうえで自分の哲学を構築していますよ、というエクスキューズも込めています(笑)。私の哲学は、現代哲学からすると、360度正反対の結論であるため、これを読まれる方には、「この人は何も知らないで自分勝手なことを言っているのではないか?」と思う方もいらっしゃると思います。それに対する回答として、「ちゃんと知ってますよ!知ったうえで自分の哲学を構築していますよ!」というエクスキューズですね(笑)。

今現在2019年初頭でありますが、2018年に哲学者マルクスガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』がベストセラーになり、日本でも大変大きく取り上げられていました。

マルクスガブリエルの主張はこうです。

「存在とは意味の場に現象することである」

この意味の場とは器とかカテゴリと思ってもらえばよいです。現象は現れることですね。例えば、サイは動物園(意味の場)に現象している、といった感じです。

そして、無数の意味の場が存在する一方で、それを統括する意味の場である「全体」は存在しない、つまり、世界(全体)は存在しない。これが、世界は存在しないとマルクスガブリエルが言っている内容です。

それを証明するために、様々な方法を用意しているわけです。例えば、世界という全体が存在するには、世界(A)が何らかの意味の場(S1)に現象する必要がある。しかし、Aは全体を表すものであるから一番大きな存在である。しかし、実際にはA<S1なるS1が存在している。これは矛盾である。従い、世界は存在しない。こういった形です。

また、物理学は宇宙を探求する学問であるが、ここで言う宇宙には物理学的な対象しか存在せず、国家や人間と言ったものは存在しない。であるから、宇宙は全体の部分集合でしかない。従い、物理学的な真理というものは、全体の真理にはなりえない。

これらのことから、全体を統括する世界は存在せず、また全体を規定する真理は存在しない。また、神も存在しない、という結論がなされるわけです。

この辺がマルクスガブリエルの主張の要点であると言っていいと思います。私の主張していることと大分違います。大分どころか、正反対ですね。現代哲学の多くは真理を否定しているため、その点ではマルクスガブリエルも同様です(ただ、ご本人としては、構築主義とは異なるなどと細かいことはいろいろ議論されていますが。)。

当然私は私が正しいと思うことを記載しているのですが、では、一体どちらが正しいのでしょうか?

これについては私は書き手が主張するものではないと思います。これは重要なポイントだと思います。どちらが正しいのか、分かる人には分かります。それでよいと思います。自らを正しいと主張するのは、これは名誉心の表れでしょう。

また、哲学の重要な議題に、「主観と客観の一致は可能か?」という問いがあります。現代哲学においてはそれは原理的に不可能とされていますが、「自分が正しい」と主張するのは、自分自身の主観と対象である客観が一致していることになります。つまり、現代哲学者がそのように言うのであれば、それは自己矛盾と言えるでしょう。

大切なことは、疑問と回答を繰り返すことです。デカルトの言うように、疑問と回答を繰り返す。徹底的に疑いぬく。そのような過程を経て自分自身の認識力が上がっていくのであり、認識力が上がることによって、自然と内容を見抜くことができるようになります。大切なことは、ここです。

ですから、私の主張が正しいかどうかは、ご自身の認識が上がれば、ご自身で判断できるようになります。それが私の答えです。正しいかどうかを、私が言う必要はありません。

私の主張も徹底的に疑いぬいて全く問題ありません。あらゆる角度から疑ってもらって全く結構です。

大切なことは疑問と回答を繰り返すこと。考え抜くことです。


○信仰心を元にした哲学の再構築

以下私の哲学的主張の要点を記載します。

・理性的認識は限界がある(カント)

・しかし、それを持って、真理や神が存在しないということにはならない。真理、そして神は存在する。

・理性的認識の限界を越えるのが信仰心であり、信仰心によって真理に到達できる。

・そもそも、あらゆることは、証明不可であり、証明可能なものはひとつもない。
 自然科学ですらも証明不可である(ゲーテルの定理、自然科学の斉一性原理)。
 必ずそれを信じる力=信仰心が働いている。

・つまり、あらゆる物事は、「事実認識」と「信仰心」の両者によって把握されている。

事実認識+信仰心=100%であり、信仰心>0となる。

・この「事実認識」と「信仰心」は、カントの言うように純粋理性(事実認識)と実践理性(信仰心)という2つの領域に分かれているのではなく、絶対矛盾的自己同一(西田幾多郎)として自他一体となっている。

・一即多多即一であり、純粋理性(事実認識)と実践理性(信仰心)は統合され「
悟性」となる。

・従ってカントの理論も統合される。

今後、哲学は、「信仰心を元にした哲学」として再構築される。

・17世紀にイギリス経験論(帰納法)と大陸合理主義(演繹法)がドイツ観念論によって統合されたように、この21世紀に哲学は新たな形で統合される。

・それを私の研究では「
理念哲学」と表現している


○本ページ内容についての詳細

以下の内容で詳細を作っています。pdfのみですが、ご興味があれば、お問い合わせください。非常に難しい内容も含むかと思いますが、私自身の哲学の全貌を記載しています。

『理念の哲学』

1.知と哲学
2.哲学と真理
 1.知の方法論 ~デカルト~
 2.真理の存在/非存在
 3.理性的認識の限界 ~カント、トーマスアクィナス~
 4.哲学史概略とそれぞれの哲学について
 5.認識力について
 6.真理とは何か?
 7.信仰心
 8.主観と客観の一致
 9.相対主義の限界と大いなる信仰心
 10.自分自身についての主観と客観の一致
 11.絶対矛盾的自己同一
 12.哲学とは何か?現代は統合された哲学が要求される時代
3.知の方法論
 1.現代の認識 ~理念を忘れた危機の時代〜
 2.理念の現実への投影
 3.理念哲学的方法論
 4.問題解決の方法
4.社会変革の青写真
 1.人間の生きる道 〜ソクラテス、アリストテレス〜
 2.個人の完成と個性の表現、自由の実現と歴史について ~ヘーゲル@~
 3.歴史と動的弁証法的発展と未来社会の相 ~ヘーゲルA~
 4.明治維新と未来の「合」の世界
5.相対主義を超えて
 1.相対主義を超えて
 2.哲学、宗教は、最終的には、科学となる。哲学、宗教、科学の一致。
 3.心の証明










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