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哲学と知の変革

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哲学と宗教 

主観と客観の一致について

上記、哲学における重要な論点である真理は存在するか?ということにこたえる内容でもあるのですが、哲学にはもう一つ非常に重要な議論があります。それは、主観と客観の一致の問題です。

哲学をあまりよく知らない方はなんのことやら?という感じでしょうが、主観と客観の一致は、大変重要な問題です。要は、「人間は正しい認識が可能なのか?」ということです。

私たちが見ているこの風景は本当に現実のものなのか?私たちが認識しているニーチェの解釈は本当にニーチェが意図しているものであるのか?要は、私たちが考える解釈と実際の客体の姿は一致しているのか?という問題ですね。

これは、デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサールと至る哲学史の過程において、現在のところ、「原理的に不可能である」というのが、一般的な解釈ではないでしょうか?

しかし、主観と客観の一致が原理的に不可能であれば、我々の正しい認識は不可能で、全て相対的になり、人それぞれということになってしまいます。その極端な姿が、正義や善ですらも相対化する動きですが、我々の世界はそんなに不安定なものなのでしょうか?

いいえ、私は違うと思います。

私は、主観と客観の一致は可能であると断言したいと思います。それは、フッサールの言うように第三者の視点でチェックするというようなやり方ではなく、これは、哲学の範囲を超える、私はそう認識しています。宗教的な領域に入っていくことで主観と客観の一致は可能になると私は認識しています。

結局、知のみでは限界があり、知の領域を、知の壁を突き抜けて宗教的な領域に入っていかなければ決着をつけることはできない、私はそう思います。

カントは知と宗教を分断したわけですが、今後、「知と宗教は統合に向かう」、私はそう思います。

カントは純粋理性批判において、理性的認識には限界がある、物自体の世界の認識は持てない、と人間の理性認識の限界性を提示したわけですが、私は今の時代に最も必要であるとされているのは、このカントの提言を乗り越えることであろうと思います。

つまり、「カントを超えること」、それが現代に求められていることであると思います。そして、カントを乗り越えた先に、理性的認識の限界を超えて物自体の世界、真理の埋蔵された世界に到達し、同時に相対主義の壁を乗り越えることができるでしょう。

そこにおいて、主観と客観の一致も確認することができるであろうと思います。


この辺のことは、詳細は『理念の哲学』で詳しく記載することにしましょう。内容的には、西田幾多郎の純粋経験に近い形であると思います。(「唯物論を超え真理へ ~新たな地球世紀の到来~」等もご参照ください)













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