現代のデカルト的な疑問:知の基礎付け⑧

さて、知の基礎付けは、知や理性を超えたものによってなされると言う話をしました。

それは一体何によってなされるということでしょうか?私は既に主観と客観の一致のお話で話をしました。

信仰心です。信仰心によって知の基礎付けがなされると私は思います。

「知の基礎に信仰心がある」

ということです。信仰の領域に入ることによって、初めて知の基礎付けがなされる、そのように私は認識しています。

そして、この主観と客観の一致のメカニズムは既に「主観と客観の一致とは?」でお話をしました。

つまり、アプリオリに自分の中にある真理認識と自分が受け取った真理の情報、この一致を自分自身で確かめる、ということです。

この主観と客観の一致によって、初めて、知の確固たる基礎づけができるということです。

そして、この主観と客観の一致は、自分自身の意識体験によって「確信」することですので、知の領域を超えています。信仰の領域に入ることによって、主観と客観の一致が為されるのです。

信仰の領域に入り、主観と客観の一致を体験することによって、初めて知の確固たる基礎づけが為されるがゆえに、「知の基礎に信仰心がある」となるわけです。