知の基礎に信仰心がある
カントは『純粋理性批判』において、理性的認識は三次元の範囲内に限定されるとし、理性と信仰を分断しました。しかし、本当は、知と信仰は分断できるものではないと私は思います。知は信仰心に包含され、知の基礎に信仰心があり、信仰心無き知は本当は不可能です。哲学は信仰心を元にして再構築されるでしょう。
知の基礎に信仰心がある、ということは、知が信仰心と融合すると言うことであり、知が三次元の限界を超えるということです。このような「知の変革」を実現し、知が三次元の限界を超えて、霊的世界の探究に入っていくこと。それが霊的科学文明を切り開くカギとなるでしょう。
相対主義を超えて
現代という時代は相対主義の時代であろうと思います。相対主義とは簡単に言えば、真理など無い、価値観は人それぞれだという考えです。しかし、善や正義、そして、愛といった理念さえも、人それぞれに勝手に解釈してよいのでしょうか?私は、真理は存在すると断言しましょう。今後、知は真理の元再構築され、相対主義は退けられることでしょう。
主観と客観の一致
主観と客観の一致とは、人間の認識は対象の姿を正確にとらえることができるのか?という問いです。これは、現在のところ、不可能というのが一般的な認識でしょう。そして、主観と客観の一致が不可能であるからこそ、人それぞれの価値観である相対主義、というのが現代の状況であろうと思います。
私は主観と客観の一致は可能であると断言しましょう。そして、これは、知の領域を超えます。逆に知的に考えていては、1万年経っても人類は真理に到達しないでしょう。知では到達不可能なのです。これを、『理念の哲学』で詳細に記述しましょう。
真理は存在する
上記、相対主義を超えて、や、主観と客観の一致で考えたように、真理は存在する。私はそう断言しましょう。真理認識は如何にして可能でしょうか?それは、知がカントの言う理性的認識の限界を超えて、信仰の領域に入っていくことで可能となります。
真理は知によって到達不可能です。カントの言うようにアンチノミーに陥り、真理の存在/非存在いずれも同時に証明されてしまいます。理性的認識の限界を超えて、三次元の壁を突き抜けて、信仰の領域に入っていくことによって、真理認識は可能となります。
その意味において、「カントを超えること」が、新たなる時代の哲学を構築していくカギとなるでしょう。それを『理念の哲学』において詳述しましょう。