現代のデカルト的な疑問:知の基礎付け⑤
では、理性の信頼性は保証されるのでしょうか?既にデカルトの議論はお話ししました。神が我々を欺くはずはないから理性は信頼できる。しかし、これは論理飛躍でしょう。
理性の信頼性を保証するには、まず理性がアプリオリに構築されているのか、アポステリオリに構築されているのか?いずれかをまず明らかにする必要があるでしょう。
アプリオリな立場がデカルトであり、アポステリオリな立場がジョンロックと言うことになると思います。これはどうでしょうか?
理性がもしアポステリオリに成り立つのであれば、どのようにして万人が共通理解の元にコミュニケーションができることを保証できるでしょうか?これは、カントの疑問にも重なってきます。私は『理念の哲学』でこの辺の議論を展開していますが、アポステリオリには不可能であると思います。(ここでは、簡略化のため、詳細は省きます。)
ですから、理性はアプリオリに経験以前に、既に存在している。そういうことになるでしょう。
では、このアプリオリな理性の信頼性をどう保証するでしょうか?ここでは、カントの議論を借りますが、アプリオリな形而上学の内容の信憑性を保証しようとするとアンチノミーに陥り、保証される、も、保証されないも同時に証明されてしまいます。
したがって、理性がアプリオリに存在する場合は理性の信頼性を保証することができません。そして、既に理性はアポステリオリではなくアプリオリに存在することを論証しているため、従って、理性の信頼性を保証することはできない、という結論に達します。