哲学の難問②中世から近世へ

人間の認識構造の確からしさを吟味したのは、近世の哲学です。近世の哲学の哲学的主題は認識論であると言ってよいと思います。

これは、中世から近世に移行し、神的な世界観から人間へとテーマが移っていったことにも関係しています。

中世においては、キリスト教神学によって、神による恩寵によって人々は救われるという価値観であり、我々人間が主体的に世界を作り替えていくという価値観では無かったわけです。それが中世の後半において教会の権威が失墜し、ルネッサンスにより人間解放が起こってくると、神的価値観が崩壊し、新たな価値を人々は模索していくこととなりました。

我々は何に依拠して、何を拠り所にして世界を再構築していくことが可能なのか?それを探さなければならなくなったということです。今までは神に依存していればよかったのですが、そのような価値観が崩壊し、人間が中心になると、一体我々は、何を拠り所として世界を再構築することが可能なのか?それを探さなければならなくなった。

そこに現れたのがデカルトです。デカルトは、考えの拠り所となる、哲学の第一原理を発見しようとしました。そして、最終的にたどり着いたのが、これが、「われ思うゆえにわれあり」です。この理性を拠り所として、世界を再構築していくことが可能であるとデカルトは考えたわけです。

これによって理性を拠り所として価値を再構築していくことが可能になったのですが、しかし、この理性は完全なのでしょうか?まず、これが吟味されなければならないでしょう。言い方を変えれば、主観と客観は一致しているのか?ということです。

そして、実はこれが意外な難問であり、近世哲学全体は、この主観と客観の一致の問題に振り回されることとなるのです。この近世哲学の流れというのは、この主観と客観の一致を追求する哲学の歴史であったと言っても良いであろうと思います。